僕はなぜ「あのYoutuber」が気になっていたのか?あなたはなぜ「あの人」がずっと引っ掛かるのか?

心理カウンセラー南ユウタです。

知っている方は知っていると思うけれども、実は結構前から、とある心理カウンセラー系Youtuberさんたちの動画が「なんだか気になるな…」と感じていた。
※今回は特定の個人を貶めるのが目的ではなく、あくまで僕の自己探求の過程を見せたいから話しています。

ちなみに、今回は「南ユウタ」という人物に何かしらの理由で「魅力を感じた」、または「引っ掛かりや反感を感じた」ことがある方なら、おそらくどこかしらヒットする内容になっているだろうと思う。

さて、僕はその方たちの動画を、この度あらためて真剣に見返した。
しかも、「自分はなぜこの動画に引っ掛かるのか?」をテーマに、内面に意識を集中し、心身の反応を手掛かりに自分と向き合いながら聴いた。

なんとなく、「今の僕なら言語化できる気がする」と直感がはたらいたから。

そのうちの一本の動画を例に挙げるなら、主に以下のようなメッセージを発しているように、「僕には」聞こえた。

①いい人なのにナメられる人は、「こんな私でスミマセン」という罪悪感がある。私はそこへ寄り添いたい。確かにあなたは苦しい人生を送ってきたよね。
②でも、いい人なのにナメられる人の「申し訳ない、ごめんなさい」というのは一見、へりくだって丁寧なようで「下から目線のコントロール」の面もある。
③「相手から認めてもらおうとする、攻撃されないようにする、嫌われないようにする」という、「そうしていればうまくいく」という「悲しい腹黒さ」がある。相手をコントロールするための手段として「申し訳ない」と思っているところもあるのだ。
④この感覚は無意識であり、気づけないであろう。
⑤「相手のため」と言いつつ、実は「自分のため」に言っている「腹黒さ」がある。これが「疾病利得(病や問題や悩みを抱えることにメリットがあるから握りしめている)」なのである。
⑥受け入れるのつらいよね。しんどいよね。意味がわからない人は、それはそれでいい。「深い話」をしているから。厳しいけど、この現実を直視してほしい。

これを見た数年前の時点から、僕は違和感や言葉にならないモヤモヤを覚えていた。

「なぜ、いい人癖のある人を腹黒い、と表現する必要があるのだろうか?」

悩める人へのメッセージ風の構成上、「責めていない」というメッセージは伝わってくる。
ところが、同時に「責められている」ように感じる人も出てくるのではないか・・・?

それが、数年前からの僕の違和感だった。

実際に、他の人たちにもこのメッセージの要約を作成して聞いてもらい、反応を確認してみた。

反応はさまざまだった。

①「正論パンチ」に聞こえます。「わかっているけど…私だって何とかしたいのに、また責められた気分になりました。もうちょっとこちらの事情もわかってほしいな…
②普段、自分も他人に対して思っていることだなと思いました。でも、自分が言われるとムカつくなとも思いました。(笑)
③メッセージがキツくて、イヤだけど見ちゃう…
④きついから、最近はちょっと見るのをお休みしていました…
⑤ナメるな!偉そうに!と反感を覚えます。
⑥「利得」とか「腹黒い」とか、無いから!良くないよ、そういう表現。

ちなみに、僕自身は昔は⑥のポジションを取り、Youtubeライブでも問題点を指摘したことがあった。
知っている人は知っているはずだ。

と・こ・ろ・が、だ。

内省を深めていった結果、実は「彼」は、過去の僕自身の心の中にもいたのだ、と気づいた。
だからこそ、こんなにも「気になっていた」のだと。

僕は昔から、「いじられキャラ」だった。

「え~?南さんと恋愛?無理い~」っていうイジリに、「へらへら」笑って、「おいおい!どういうことやねん!(笑)」とツッコミを入れる。

わざと面白くないこと言って「スベッって」、それで自分が笑われることで場の雰囲気を和ませる。

目上の人にはとても緊張しへこへこするのに、目下の人には「やさしいお兄ちゃん」としていようとしていた。

後輩たちからは「愛されキャラ」としてとても好かれるかわりに、年上の先輩には緊張してしまう自分を「情けない」とどこかで軽蔑していた。

比較的歌がうまかったので、部内で「すごいね」と尊敬されるのがうれしかった。

でも、時々「我」を出しすぎたかな?と気になっては、SNSアカウントのみんなの投稿ばかり気にする自分が「弱っちい」と思ってイヤだった。

劣等感や不安がバクハツして、SNSアカウントを何度も削除しては復活をくり返す自分が「メンヘラ」だと、心のどこかで蔑むようなことばで見下していた。そんな自分が恥ずかしかった。

「愛されキャラ」で、「いじられキャラ」で、「やさしいお兄ちゃん」で、「メンヘラ」な自分。

その反面、「死んでも臨床にしがみつく」と当時から言っていたくらい、カウンセラーという夢に向かってあきらめることなく、日々努力している自分のことは「我ながらすごいやつだ」と誇ってもいた。

歌という得意なことを披露する時は、誰よりも堂々とする自分もいた。僕が先頭に立って、リーダーとしてみんなを引っ張っているということに高揚感を覚え、誇りを感じていた。

「ユウタ君はやさしいね」と言われると、複雑な気分になってた。
将来はカウンセラーになりたかったから、「やさしい人でいたい」とずっと願っていたからうれしいかった。
これは「お母さんを助けたい。妹を助けたい。」という当時の僕にとって一番大切な価値観の反映だった。
反面、「他の男性と比べてやわで繊細な人だね」と言われた気分にもよくなっていた。
だから、当時の僕は周りに人に「何の仕事しているの?」とたずねられても「心理カウンセラーです」と胸を張って言えず、恥ずかしがっていた。そんな自分がまたイヤで、情けないなあとも感じていた。誇りを感じるなら堂々とすればいいのに、と。

かといって、「ユウタ君はすごいね」と言われると、それはそれで複雑な気分になっていた。
みんなと同じ「ふつう」でいたいと願う自分と、あきらかに才能があり「自分は天才である」という自尊心に鼻を高くする自分が同居していた。
そんな風に思う自分も、どこかで「攻撃的で、競争主義で、人を見下すようでやさしくないからイヤだな」と思っていた。
かと思えば、「やさし過ぎて、人に強く言えなくて、目上にヘコヘコして、他の筋肉質な男性やおだやかな男性のようにはメンタルが安定していない自分」が、たまらなく恥ずかしかった。

ぐるぐると自分という人間が切り替わる感じ。
自分は一体、「やさしい自分」でいたいのか、「強い自分」になりたいのか、自分が一番、自分自身のことをわからず、うまく扱いきれなかった。

まあ、それは今の僕だからわかることで、当時の僕はそんな葛藤があること自体に気づかず、ただ目の前のできごとに一喜一憂していただけだったけれど。

つまり、僕自身が、まさに「いい人なのにナメられる人」だったのだ!

それに、僕がYoutubeでバズったきっかけが、200万再生された「プライド高いけど劣等感強い人は〇〇しています」という動画だった。

「いい人なのにナメられ」て、「自分を天才と思い、人より上でいたいと願うほどプライドが高い瞬間もあれば、人からどう思われたか過剰に気にしてSNSアカウント自爆をくり返す劣等感に苛まれる」、そんな僕がいた。

つまり、僕は自分が「やさしい人」だと思われると「愛されキャラであるうれしさ」と「いじられキャラで弱い男と思われた屈辱感」の両方を感じる人間だった。

「すごい人」だと思われると、「天才と思われた誇り」と、「自己チューで周りが見えていない人」とか「変人」と思われたのではないか?嫌われちゃうのではないか?え?僕って何か変なこと言っちゃった?と、ものすごく不安になる人間だった。

そんな僕の心の中には、「父性(男性性)」と「母性(女性性)」が同居していたのだった。

長くなってきたので、続きは明日にします。